ネットメディアこうべ配信記事
ネットメディアこうべ配信記事
メルマガ配信記事詳細

2010年12月08日

行雲12月号(その3)をお楽しみ下さい。

随想 「トキタンとメリケン地蔵」
筆者 行雲 松阪 昭

若いときから船が好きで、よくメリケン波止場をさまよった。艀はしけ、引船そして港で働く人が多く、一日中活気があった。その中、大きくて立派な引船「時丸」が好きで、スケッチしたり写真に撮ったりした。この船は焼玉エンジンだが3気筒。単気筒ならポンポン船といわれたが、時丸はポポポン三連発。ワルツ調のにぎやかな音で、どこに居ても発見できた。その船の船主時田さんと親しくなり、船のこと教わり楽しんだ。
 だがある日のこと、もうあきまへん。止めです。と表情固く語った。それは今、貿易貨物の運び方が変わった。本船から艀に荷を移しその艀を引船する方法から、コンテナー方式になり、艀も引舟もいらん。わしも失業ですと云う。
 そして悪い話を続け、若い頃のことだが、船中生活をしていて子どもを育てていたが、3歳の時この海でいのちを失った。もう船の仕事は止め、陸に上がり仕事を探し一からやり直しますと云う。
 かってのメリケン波止場は、神戸港へ入港した多くの船の荷を運ぶ大立役者だったものを、今はすでに無く、海面は埋め立てられメリケンパークとなり、ホテル、博物館が建ち、市民の憩いの場、イベント会場となった。
 そのメリケンパークの東入口の交通の激しい道路近くに、メリケン地蔵尊と書かれた祠が建っている。この地蔵さんは珍しく2体あって互いに背をあわせている。1体は海に向きこの海で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、もう1体の北向きは市街地に向き、時田さんのように陸へ上がった人々の生活の無事息災を見守って居られるようである。
 メリケンパークには映画、移民、大震災のモニュメントがあるが、かってこの海で働いた多くの方々を顕彰するものがない。メリケン地蔵はモニュメントではないが、この海を職場としていた人々のことすべてを知っておられるこの地蔵さんは、そんな人々の心の拠りどころだと思う。
posted by いくくる at 09:00| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ネット文庫(行雲・絵本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

行雲12月号(その2)をお楽しみ下さい。

不思議の国・阿波徳島その4

筆者 行雲  亀井 實

  前号まで:@かごめかごめの童謡の謎解きとして「剣山」についA京都祇園さんの祭神は……ユダヤの神?B伊勢神宮をベラ・コチェフスカ女史が参拝。C神輿とアーク

D日本では三種の神器を入れるものは御船代(ミフネシロ)というが・・海を越えてきた名残ではないか、また、古代ユダヤも三種の神器をもっていた、日本の三種の神器のうち、ヤタの鏡、これはなべ(鍋)だと言われている。(あるいはユダヤの三種の神器のマナの壺とも言われる)土佐出身の明治の偉いサンが明治6年、見る機会があり、見たところその裏にはヘブライ語で(我は有りて、在るものなり)とモーゼが神より聞いた言葉を彫ってあったと言われている。(ユダヤの三種の神器もアーク・船に入っている)
Eイザヤという人が指揮してアークを運んだといわれているが、日本神話にでて来る、イザナミ、イザナギの尊とそっくりではないか???
F天皇家の紋章は菊であり、16弁である、一方、ユダヤの12部族の紋章は12弁の菊である。
 かって、エジプトの王家も16弁の菊の紋章を尊いとした、またイエス・キリストもユダヤ人であり、ローマにあるキリストの銅像の胸には菊の紋章を打ってあるが、16弁である。しかし、直系の12部族でないので、キリストでもさすがに12弁は使えなかったと思われる。
では日本の皇室は16弁で傍系か???
明治神宮の拝殿の二つの大扉の裏には12弁の菊のご紋章が8個打ってある。
さらに、天皇家が乗るほう連の中も12弁の菊のご紋章が打ってあることか  ら日本の天皇家は12部族の直系ではないかと言われている。
いずれにしても 菊のご紋章はシュメール地方で発生したと言われ、多くの遺跡が出ている。 
かって、フセイン・イラク大統領は記者会見の席に菊のご紋章入りのカフスボタンをして現れ、記者から、それは日本の皇室から贈られたものかとの質問に(君達は学がないね、これは、われわれの祖先の紋章だよ)と言ったらしい。
 ちなみに、現在、世界中を見渡して、菊家紋をシンボルにしている1族はユダヤ人と天皇家以外にはいない。
 もうひとつの天皇家の紋である「五七の桐の紋」は、失われたイスラエルの12部族のひとつガド族の紋である。
G天皇のことを昔は ミカドと言っていたが、実際はミガドと濁る
  これは文章などにも残っている。これは12部族のうちガド族が天皇となった、それを呼ぶとき御ガドと言ったのではないか???
 ガドには7人の子供がいたが、その1人の名前は ニッポン(あるいはエッポン)という、・・・・これが日本のもとではないか???
H日本は紀元2600年と言われているが、(昭和15年)
古代ユダヤは紀元前800年ごろ滅んだ、そして、流浪の旅に出て、約束の地、 日本にたどり着き、国を造ったとすれば丁度一致する。
I古事記や日本書紀によれば、日本で最初にできた国は淡路島(江戸時代までは阿波藩)であり、次に 伊予の二名島(四国である)であると書かれている、伊の国王が住んでいる島となる。  なぜ淡路島が一番なのか、意味があるはず、阿波は昔、委の国、伊の国、夷の国などと呼ばれていた。 
これは古代ユダヤ人がまず、淡路島にたどり着き、標高800mのエルサレムと非常に似ている剣山付近に住んだからではないか、 いわゆる、四国耶馬台国論である。・・・反論多し。
J日本の神社の作りは世界でもその例をみないが、旧約聖書に書かれている
以下、古代ユダヤのものと非常に似ているというよりそっくりである。
イ.鳥居
ロ.拝殿・奥殿、拝殿には一般の人が入れるが、奥殿には神主以外入れない
ハ.ヒノキで作れ
ニ.神を数えるのに柱を使う
ホ.拍手を打つ
ヘ.参る前に手や口を清めるために使う手洗い盤
ト.神社の前には、日本にいなかった獅子があるユダヤの神殿にも獅子がある
チ.賽銭箱がある、但し上古はなかった、伊勢神宮には賽銭箱なし、これもユダヤと同じ
リ.神殿の構造、しめなわ、禊(みそぎ)、榊で払い清める
その他、古代ユダヤと日本の生活様式や生活慣習として非常に似ているもの、というより、一緒のもの。
イ.署名捺印
ロ.塩をまく、敵討ちと罪人の逃れ場所
ハ.着物・・・古代ユダヤの人の着物とそっくり
ニ.13歳で元服する、大小を帯びる
ホ.白を尊ぶ
ヘ.毎月1日と15日が休みである(明治維新まで)
ト.お辞儀する、挨拶の仕方
チ.足を洗って座敷に上がる(旅人が足を洗って座敷に上がる)
リ.相撲、投網
ヌ.角隠し、まじない、宮参り(生後30日に赤ん坊を神社に初詣させる習慣は日本と古代ユダヤだけである)
ル.正月の行事(門松、もち、七草等々)
ヲ.清潔を好む
ワ.言葉 、バレル、かさ、供物、 映える、だべる、蜜、泣く、凍る 国のみやっこ(その国を治めているトップをさす)、等々その他多数が古代ヘブライ語で同じ意味であり発音も同じである
K 記紀に書かれている神話によれば、天の高天原から天下ったと言っている。アルメニアのタガーマ州のハラ(ハラン)という町が現在もあるが、そこから来たと言っているのではないか????
―つづく―
posted by いくくる at 15:24| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ネット文庫(行雲・絵本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月06日

行雲12月号(その1)をお楽しみ下さい。

行 雲 第127号[平成22年12月1日]その1

雑言 一宵一話 その三十六

筆者 行雲 藤本 敬八郎

 備忘録から 4
 大和やまと 七彩ななさい 吉忠よしちゅう………と書けば、物語りの色艶に予感がないではない。さてさて……
 大阪から東へ、やがて京都に近づくころ大きな川にさしかかる。古くから物語や歌に多く詠まれたこれが桂川である。この西岸に日本中世の数寄屋造り書院建築桂離宮@がある。かってドイツの建築家ブルノ‐タウトが京都を訪れた時、この日本建築のすばらしさを世界の一級品と絶賛したことは語りつがれて有名な逸話だ。いまも桂川はとうとうと豊かな水を、北から嵐山をぬけて南へ流している。東には鴨川が上賀茂から下賀茂を経て東山の裾を矢張り北から南へ、古都は二つの川に挟まれて栄えてきた。
 桂離宮に近い堤を少し上流へ、川は大きく蛇行し東の堤に守られるようにして『梅津』がある。かっては人々が行き交う華やいだ地区であったようだが、いまではそれほど特長のあるまちのように見えないが、私には忘れえぬ思い出の地である。
 桂川の堤まで1分と要しない所に矢野君の下宿があった。私は4年生の夏休み、この君の所へ居候をきめこみ、しばらくのあいだ共同生活をしたことがある。大学では専攻が違ったが気風のよい彼とは気が合い、よく美術論議をした仲である。
 多少は格好をつけて、洒落た造りの下宿屋の間口は戦前からのカフェの面影を十分にのこしていた。入口は当時では珍しいアーチ形のドアにステンドグラスがはめこまれ、室内には木製のカウンターと止まり木の腰掛が5脚ほど。バーテンダーもいたであろうその背壁には、しつらえ棚があって舶来のウヰスキーやバーボンの瓶が並んでいたに違いがない。粋な窓枠の磨りガラスも朝顔形のシェードも、いまは曇ったままで大正ロマンの香りがそこかしこに残っているこの1階は、もう長い歳月人の生活臭もなく放置されたままらしい。
 2階への狭い階段を登れば8畳ほどの間が矢野君の居住空間で、画家の卵にふさわしくなく小奇麗に片付けていた。この部屋をきょうから1ヶ月ほど共同使用するのだと思えば彼に感謝しなければならない。先住者をたてて、彼の生活ペースに可能な限り合わせるのがコツだと自分に言いきかせた。
 大学4年生になっても耐乏生活からぬけだせぬ私は、労働の代償でいくばくかの賃金を得て学生生活を続けていた。
 今回、非正規雇用で期間労働の口をみつけた。就労期間は夏の1ヶ月で授業出席の心配はなかった。
 京都は、マネキン製造では全国シェアの大半を占める一大産業地で、ここ梅津には幾つかの生産拠点を各社は持っていた。冒頭に書いた大和、七彩、吉忠は、何のことはないマネキン製造会社名である。本社は二条城近くの室町界隈にあり、服飾布地等繊維部門も大々的に展開し、展示場も常備していた。
 私は吉忠マネキンの梅津工場で働くことになった。職場は矢野君の下宿から徒歩数分、交通費は0円。有難き哉。
 居候生活の初日、矢野君との楽しい夕食も共にできた。十分な広さに、ふた流れの蒲団を敷き就寝についた。
 真夏の夜の出来事は、地方色豊かな恐怖話から珍事、スットン狂な逸話まで残して、子どもの頃におぞましく聞いたものだ。寝所がかわれば寝つきは悪い。矢野君は、もう軽い寝息をたてている。

桂離宮と桂川この川の東堤にある、くたびれてしまった大正ロマンの香りがのこる矢野君の下宿屋へ転がりこんだ私。梅津での共同生活夏の夜の顛末を次号にふれてみたい。
―つづく―
註 @桂離宮:元和(1615〜1624)ごろ、八条宮智仁親王の別荘として創建。数次にわたって造築。1883年(明治16年)以降は離宮。数奇屋造り書院として回遊式庭園で有名。(広辞苑)
posted by いくくる at 08:35| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネット文庫(行雲・絵本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする